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第二篇目次 > 本編
「…………」
そっと、ティアは被せられた毛布の中で目を開けた。
……眠れない。
結局上掛け代わりとなったローブからは、毛皮特有の獣臭さはおろか、嫌というほど浴びたはずの薬草臭さすらない。
代わりにほんのりと漂ってくるのは、香りだった。
(甘ったるいマールチェキ……あと、何だろ……)
最初にぞくっとくるほど甘い香り。その後で鼻を突きぬける、香辛料のような爽やかさと、清涼な残り香がそっと忍んでくる。
(カーレンらしいと言えば、らしい香りなんだけど……)
何だろう。香りを身に纏う習慣は、昔の彼にはなかったはずなのだが。
首を傾げながら、毛布の中から這い出した。
肩の辺りを探って、すっかり体温に馴染んでいた金属の感触を探し当てる。細い鎖だった。
引っ張り出していくと、服の中から小さなロケットが這い出して来た。
「……
にやにやと笑ってロケットを差し出してきた顔を思い浮かべながら、かちかちと隠された仕掛けを弄ると、中からころりと白い丸薬が出て来た。仄かにともった灯りでてろりと輝くそれは、妙に見た目が妖しい。
(『中級の……そうだな、ヘクス辺りを三十匹。あとはそのロケットの中身で適当にあいつに悪戯してこい。それで試験終了』)
頭の中で彼の言葉を繰り返し、ティアはじっと丸薬を見つめ。
「効果は知らないけど……まぁ、毒ではないわよね」
唇を開いて、そのまま飲み下した。
五秒ほど経ってから、ふと、異変に気付く。
「……え」
飲み込んだ瞬間、ふわっと解けた丸薬の殻。
一気に全身に行き渡ったのは、間違いなく――ロヴェ・ラリアンの魔力だった。
やられたと気付くのに数十秒もかからなかっただろう。同時に、悪戯の手段の見当もついた。
「…………とうさん」
頭を抱える。喉から漏れたのは高い声。実の息子への悪戯に、どれだけ手の込んだ方法を思いつくのだ、あの父親。
「どうしろっていうのよぅ!」
あ、舌ったらずになった。
□■□■□
眩しい。
頭がぱっくり二つに裂かれたようだ。
散々飲み明かした翌朝は、いつも地獄の時間とばかりに、のたうつ事も出来ずにどんよりとしているしかない。
そんな愚痴をいつも零すので、彼女――ベリブンハントがどんな状態にあるかというのは、あっさりエルニスにも把握できた。
ところで、エルニスには帰るための家とは別に、副長としての部屋が長の屋敷にもある。普段カーレンと連携してウィルテナトやその周辺の里を回しているので、一応生活空間として寝起きもできる上、軽く食事を摂る事も可能な場所が必要だったのだ。
今の時期はまた大陸各地の里とウィルテナトが定期連絡を取り合う頃なので、そのために使いのドラゴンらが北大陸中の空を飛び回る。彼らの歓待や対談も――一部こそ周りからの補佐があるものの――長であるカーレンが主導していくために、エルニスもこの部屋によく寝泊りをして彼を支えていた。
近頃になって大分やってくるドラゴンたちの数も落ち着いて来ていたのだが――そこに、ティアの突然の来訪という滅多にない嬉しい驚きがあったのである。
大騒ぎとなった宴会からようやくベルを運び出して、住み慣れた部屋での方が勝手が良いという理由でカーレンとティアの後を追うように屋敷に戻ってきたのは、夜も大分更けた頃だった気がする。
……そこから、訳あってエルニスは一睡もしていない。
ちょうど夜明けの頃合いのようで、部屋の奥深くまで朝日が燦々と差し込んでくる。
ああ、明けたな、と回転の鈍い頭で考え。
ベッド脇に腰かけたまま、膝で頬肘をついて、エルニスはぬかるみにはまったような心地でずぶずぶと微睡みの中に沈んでいた。
そのまま眠りにいきたくとも、頭の中の鈍痛が邪魔をする。
カーレンほどではないが、エルニスもまた酒は普通よりも飲めると自負していた。しかしながら、カーレンの言葉通り、相当に酒精の強いものばかりが昨日は振舞われていたようだ。自分も二日酔いになったのかもしれない。
眠気と頭痛との狭間で呻いていると、ベッドの上でもっこり盛り上がる毛布の塊が、突然もぞもぞと動き出した。
「……んぅ〜」
やがて、両脇から頭部を抱え込んだ格好で、情けない顔のベルが顔を出す。
いつもなら指通りの良い銀の髪はぼさぼさ。顔も蒼白くひどい色をしているし、眉間にはくっきりと皺ができている。
更に横目で見下ろして、発見した。
(……あ、目の下に隈ができてら)
瞼を開けば、魔物顔負けの充血具合が見られそうだ。それこそ幼い子供なら泣き出しそうな顔を想像し、恋人だが、――いや、恋人であるからこそ、エルニスは思ってしまう。
女にあるまじきほどの醜態だと。
放っておいたらその内吐くかもしれない。
ベッド脇に腰かけたまま、ベルの頭に響かぬようにそっと溜息をついた。
「……俺も何でこんなのに惚れたんだろーな」
そっと髪を撫でつけてやると、更にぎゅうっと眉根が寄る。
「は……っ痛」
思わず笑うと頭痛がひどくなった。少しじっとしていると痛みは去ったが、だからといって二人してベッドで唸っている訳にはいかない。
傍の小さな机に置いた眼帯を取り上げると、それで右目の周りを覆い隠す。深い傷跡が右目の上を走っていたので、それを隠す意味合いがあった。
「二日酔い……っていうと」
立ち上がって、部屋の反対側までふらふらと歩いていく。
箱型の食材入れの天蓋を開けると、エルニスは頭を抱えながら覗き込んだ。
「ミルだっけか?」
中央大陸の中部や、気候の穏やかな西大陸で育つという豆だ。
煎ってから細かく砕いて作った煮汁は、苦みと渋みと香ばしい香りのする飲料となる。
先日、北大陸の最西端からやってきたドラゴンが、土産物だと持ってきてくれたものだった。
煎るとくれば、エルニスお得意の炎であるが。
「……便利、ねぇ」
ティアに言われた言葉を思いだしながら、窮地に陥る恋人の誇りの最後の砦を守るべく、エルニスは香ばしくなったミル豆を台の上で叩き潰していた。
――まぁ、二日酔いの看病には、詫びという意味も入ってはいるのだが。
そこで、昨夜ティアの代わりに、強烈な『魂入り』を飲み干した長の顔が思い浮かんだ。
「――あ。カーレンの奴、大丈夫か?」
もしも彼まで二日酔いだとしたら、ミルの乳割りを持って行ってやった方が良いのかもしれない。
□■□■□
ぱたん、と。
無言でエルニスは、一度は開けたカーレンの部屋のドアを閉めた。
今、自分は何を見たのだろうか。
首を傾げてしばらく悩んだ。手にはベルに作ってやったのと同じミルの乳割りが入ったカップがある。冷めると不味いだろうと思ったものの、再び開けて確認する勇気が出ない。
……とはいえ、部屋に残してきたベルの様子も気になる。
「…………よし」
小さく呟いて、再びエルニスは思い切ってドアを開けた。
「……何だ。おまえ、ドアをそんなに開け閉めして、何がしたいんだ?」
カーレンが部屋の中で振り向いて言った。少し前に起き出していたようで、洗い晒しのシャツと黒のズボンという実に気の抜けた格好でソファに座っている。
それ自体は特に問題はない、とエルニスは確認した。
問題にするべきは、彼が手に握っているヘクスの毛のブラシと、それによって気持ちよさそうに髪を梳かれ、カーレンの足の間で床に座り込んだ――
「おまえ、その幼女をどっから拾ってきた」
――どう見ても五歳を過ぎたばかりの、裸体にシーツであつらえたドレス一枚の、小さな女児の姿がそこにあった。
昨日の朝に入水自殺未遂をしたと思ったら、今朝は幼児誘拐か。
何に目覚めた。いや、ついに何かに目覚めてしまったのか。くらくらと眩暈のする想いながら、エルニスの口は毒を生産していた。
「不穏な噂のネタだけは尽きない奴だなおまえ。減らす努力をしたらどうだ」
「どんな妄想をしている。よく見ろ」
「ああ?」
顎で幼女を示したカーレンに眉を寄せつつも、エルニスは彼女を観察し――かくんと顎を落とした。
つややかな黒髪。くりくりとした大きな目。将来育った姿を見るのを楽しみに思わせるような、一見でも愛らしい外見。
しかし、どこか知っているような――いや、そのまま知り合いを小さくしたらこんな感じだろうか。
「ティア!?」
「うん、そう」
目を剥いて叫ぶと、幼女――小さなティアは頷いた。
「どういう事だ?」
「ロヴェの……実父のせいだ」
カーレンが苦々しげに言った。
彼が言うには、こうだ。
ティアは三年ほど前から、カーレンの父親のロヴェと共に旅をしていたはずだった。ところが、半年ほど前、彼女は彼に離れて旅をしてみたい、と冗談交じりに言ったらしい。
とある理由で面倒を見る事になっていた娘に対し、二年半に渡って行った身の守り方などの扱きは、もうあらかた終わっていた。それもあってか、ロヴェはそろそろ、寵姫であるティアとカーレンを会わせてやろうと考えていたようで、今回試験的にティアをウィルテナトに行かせる事を思いついたという。
ウィルテナトのあるクラズア山地は、中級(ロヴェ自身にとってはその程度)の魔物や、たまに厄介な上級の魔物が現れる上、過酷な雪山という環境。
しかし、自分が扱いたのだから、間違っても死ぬはずがないという判断の下、ロヴェは半月前にティアをクラズア山地の麓にぽんと置いて行った(ここでカーレンは蒼褪めたという)。
一応試験だからという事で、中級の魔物を少なくとも三十匹、ウィルテナトに行くまでに仕留めるようにとロヴェは言い置いた。できなくても構わないが、その場合は更に一年ほど扱くと宣言されていたようだ。
昨日の事件からも分かる通り、ティアはその条件を難なく達成して、ウィルテナトにやってきている。
問題はここから。
実はロヴェはおまけのように、試験の達成条件をもう一つ付け足していた。とはいえ完全にこれは彼個人が面白がってやった事のようで、もしもできたらちょっとしたご褒美があるぐらいだとティアは証言する。
それが――カーレンへの、悪戯であった。
ロケットの中の丸薬を飲んで、カーレンのベッドに潜り込む、だけ。
年頃の人間の娘にしてはずいぶんと問題行動だとは思ったようだが、丸薬の効果はまさかの身体の幼児化。着ていた服はぶかぶかで身に付けたら転んだらしい。
自棄になったティアは、深夜、(身体が幼女だったからか、何かを振り切って)シーツ一枚を裸の体に巻きつけて、こっそりとカーレンの部屋侵入を決行した。
翌朝、ベッドの中で自分が妙に温かいものを抱えて目覚めた事に気付いたカーレンは、じっと腕の中から自分を見上げてくる、どこか懐かしい面影のある幼女の存在――いや、幼女を自分がベッドの中で抱き締めて寝ていたという状況を、なかなか受け入れられずにいた。
そうして目覚めて早々大混乱の中に突き落とされたカーレンへと、ティア扮する謎の幼女は、止めの一言を放ったのである。
即ち、
「ぱぱ?」
――悪戯完遂。
ひくっとエルニスは頬を引きつらせた。あの愉快犯。
寵姫のあまりに性質が悪すぎる衝撃発言に、思考も身体も固まったカーレンは、しばらく立ち直れなくなっていたという。
ベッドの隅で片膝を抱え、ひたすら誰の娘なのか考えこむ姿があまりにも哀れで、見かねて種明かしをした後、いくらか回復したカーレンに身支度をさせられ、今に至るのだとか。
「……ロヴェには、今後たっぷりと驚かせてくれた礼をする必要がありそうだ」
無表情で、ティアの髪を丁寧に梳きつつ静かに言ったカーレンの背に、エルニスは本気で薄ら寒いものを感じ取った。
「……ところで、いつになったら戻るんだ?」
寝不足からくるあくびを噛み殺しながら聞くと、ティアは一言で返した。
「ひとばん」
ブラシを握るカーレンの手が止まる。
「せいかくには、」
ティアが舌っ足らずながら、首を傾げて呟いた。
「ひがのぼってちょっとくらい? だから、はやくへやまでもどらないと……」
カーレンはゆっくりと、エルニスに表情無く顔を向け、小さく途方に暮れたように眉を下げた。
衝撃から立ち直ったばかりで、頭が回らないらしい。エルニスはこめかみから髪を一気に後ろへ掻き上げた。
苛々と言った。
「服のあるところに連れて行け。即だ」
言葉通り、小さなティアを抱えて、カーレンが彼女に貸した両親の寝室へ走って行ったのは言うまでもなかった。
「ああ、エルニス」
と、部屋から出て行ったはずのカーレンが、ひょっこりとドアから顔を出した。
「……何だよ。行かないのか?」
「それはそうだが、おまえ、昨日徹夜しただろう」
カーレンは言いながら、僅かに眉を潜めた。
「酔いに任せるのは良いが、あまりベリブンハントに無理をさせるな。二日酔いどころじゃなくなるぞ」
……寝不足の理由は御見通しだったようだ。
エルニスは肩を竦め、「気を付ける」といい加減に手を振った。
ちらりと見えた幼いティアの顔は、会話の意味を悟ってか、子供の容姿には不釣り合いなほどに真っ赤になっていた。
□■□■□
「エルニスとベルって、いつから?」
すっかり十七歳の大きさへ戻ったティアは、屋敷の小さな食堂でカーレンと共に朝食を摂った後、そんな質問をした。
何が、とは言わない。もともと食事の後で聞く事すら躊躇われるような内容だったが、聞かずには居れなかった。
「私が長として里に引っ込んでから一年ぐらい経った頃じゃないのか? 時期的には、それぐらいだと思うが。それから度々……たぶん、もう両手の数では足りないだろう」
答えながら、カーレンはティアへ、エルニスが作ってきたのと同じミルの乳割りを勧めてきた。
ロヴェの丸薬が何をどう作用させたのかは知らないが、予想された二日酔いの憂き目には、どうやら合わずに済んだようである。しかし、ものには念を入れて、であった。
「……どうして自分の恋愛沙汰以外にはそんなに鋭いの?」
声が低くなると、カーレンは虚を突かれたようにカップを勧める手を止める。
「……やはり鈍いのか?」
「え?」
「ん?」
「……何でもないわ」
『…………一時期、貴方にも呆れるほど鋭い時期があったと記憶していますが?』
二人以外誰も居ない食堂に、そんな声が響いた。
ティアは、その声に聞き覚えがあった。
するりと、食卓の高めの椅子に上ってきたのは、真っ黒な体躯の小さな狼だった。爽やかな青の目が、親しげにティアの方を見て瞬く。
『お久しぶりですね、ティアさん?』
「ルティス!」
思わず彼を食卓から拾い上げて抱きしめると、カーレンが呆れたような視線を狼――自分の使い魔に投げた。
「おまえ、昨日の宴ではどこに行っていた?」
『久しぶりに空が綺麗だったので、星見をしていたんですよ』
長い尻尾を振りながら、ルティスは答えた。
『別に使い魔が四六時中、主人の傍に居なくてはならない決まりもないでしょう?』
切り返してから、彼は意味深気にティアとカーレンを交互に見た。
『そういえば、妙な星の動き方でしたよ。何かが通る場所でも空けるように、星が遠のいていくんです』
規則的に揺れていた尻尾が、ぴたりと止まってぴんと張りつめる。すっと顎を上げて、狼は自分の推測を告げた。
『おそらく、凶星――『蒼い矢』の出現の予兆でしょうね。三百年ほど前にも似たような事がありましたから』
「凶星?」
「人間の間で凶兆と忌まれている星をそう呼ぶだろう。彗星、ほうき星とも言うが――数十年から数百年の周期で、光の尾を引いて現れる巨大な星の事だ」
カーレンが自分のミルの黒い水面を眺めながらティアに言った。
「ふうん……」
「ただ、蒼い矢に限っては少し勝手が違う。あれは、ある存在がこの世界にやってきている間中、夜空に輝き続けるからな」
「ある存在? カーレンは知ってるの?」
「昔、ロヴェと一緒にいた頃に会った事がある」
『ああ、その事は私も覚えていますよ』
頷くと、ミルを口に含み、カーレンは遠くを眺めるように目を細めた。
「獣の体の中に、空の世界を抱える――異世界エマルフィアの民、『ミリアシェ』だ。彼らはヴァンリールと呼ばれる一族を、こちらで言う王たる存在に据えている。こちらの世界の事をアウルフィアと呼び、人に似た姿を取る事もできる……獣としての特徴が、耳や手首、足首の周りに残ってしまうがな」
ぽかんとティアは呆けていた。
「……まぁ、突然言われても理解できかねる話だろうが。事実出会ったのだから、そうとしか言いようがない。――ロヴェは私と一緒だった時も数えると、三度はヴァンリールの一族に出会った事があるそうだ。大体三百年ごとで、今回も出会えるとしたら四度目だな」
「って事は、三百年に一度、ヴァンリールたちはこの世界にやってくるの?」
カーレンは頷いた。
だが、彼らは一体何のために、そんなに定期的にやってくる必要があるのだろうか。
ティアの手からルティスを取り上げると、カーレンは黒狼を膝の上で遊ばせながら続けた。
「彼らは、王の世代交代を行うために試練を受けるそうだ。ちょうどロヴェがおまえに試験を課したように、ヴァンリールら王族は『ミリアシェ』の民を導くため、試練を受ける資格を得るべくこちらにやってくる」
つまり、とカーレンは言う。
「世継ぎが無ければ話にならないからな。
ティアは目を瞬く。
「え……じゃあ、その生まれた子が、今度はこの世界に?」
「まぁ、おそらくそうだろうな」
カーレンは言って、首を傾げる。
「こちらの星の呼び名に因んだ名前だ。男ならルメリク・アルナ。女ならアストラ・シンシアフと名付けているはずだが」
「へぇ……」
全く知らなかった。
「私、まだあの『お父様』に聞いてない事がたくさんあるみたいね」
「とはいえ、千二百年分の知識と経験だ。あれほど長く生きているドラゴンは多くない。一度に吸収できたものではないだろう」
カーレンが言った時、こつん、と音が聞こえた。
二人とルティスの一匹とで音の方向を見やると、窓から一羽の鷲が顔を覗かせていた。
ティアが近寄って窓を開けると、部屋に飛び込んできた鷲がカーレンの前に降り立った。
「……これは」
何かに気付いたのか、呟いてカーレンが鷲の首に手を伸ばす。
と、唐突にその手に古い封筒が出現した。
「……何? 今、何もない所から手紙が出たみたいに思ったけれど」
「魔術具だな。魔力を込めると、ここの球に対応して、ある程度までの大きさのものを中に『溜められる』仕組みだったはずだ」
鷲の首に括りつけられた球を示して、カーレンが言った。
彼は紅い目を怪訝気に細めて、封筒をひっくり返す。
「しかし、手紙が来る心当たりがないぞ――と、これは蝋封か?」
「蝋封?」
そんなものを封印に使うという事は、ただの手紙ではなさそうだ。
「その割には、紋は何も押されていない。それに……」
カーレンは封を開けずに、手紙をそのままティアの方に差し出した。
「ますます妙な事だが、」
きょとんとしているティアに、カーレンは告げる。
「おまえ宛てだ」
「……私?」
ルティスがカーレンの膝の上からテーブルに駆け上って、ティアの前までやってくる。
『まるで計ったように来たのも怪しいですね。ティアさんがこのウィルテナトに来ると知っている第三者が、果たして世界にどれだけいると思いますか、マスター?』
「さぁ……少なくとも、ティアにこんな手紙を出す人間がいる覚えはないな」
カーレンの言葉にはティアも同意した。
第一、カーレンは別としても、今の自分には、ロヴェと、一緒に育った義弟以外には身寄りがないのである。
「ロヴェの新手の悪戯かしら?」
「そんな訳はないだろう。彼ならもっと変わった方法を使ってくる」
『……楽しければ、何でも良いようですからね』
いずれにしても、気味が悪い事は確かだった。
謎の手紙の処遇に困っている所に、食堂の出入り口の方から物音がした。
ベルだった。
見事に二日酔いに見舞われた頭を重そうに抱えてはいるが、顔色は良い。エルニスがティアたちと別れた後で、彼女の世話の続きでもしたのだろう。
「カーレン……何か、中央から手紙が来てるわよ……」
「……え、カーレンにも?」
大雑把な手つきで彼に投げられたのは、純白の封筒。それを見て、どこからのものか、カーレンは一目で悟ったようだった。
「マールウェイか」
「何で分かるの?」
「色だ。里の間で公式な遣り取りをする時は、大抵その里を象徴する色に封筒を染める」
封を無視して横の口を破り、カーレンは中の手紙を取り出した。
無言で読んでいく内に、眉が潜められる。
「……アークセンブリ?」
思わずといったように、カーレンの喉から困惑の声が漏れた。
何の事かとベルに視線で問いかけると、「族長の会合なのよ」と返事がくる。
「数年に一度、中央大陸に全世界からドラゴンの里長たちが集まるの。あんたが初めてウィルテナトに来た時は、ちょうどまだ長だったアラフル様が会合から帰って間もない頃だったから、知らないのは当然よ。それに、今回はカーレンにとっては初めての顔見せなの」
「とはいえ、まだ時期が早くないか。あれは今年の夏辺りに開く予定だったと聞いたが」
「知らないわよ、私は」
ベルが髪を掻き上げながら言った。
「ただ、エルニスと最近使いで他の里に行った時……ちょっと気になる話は聞いたの。あっちでは妙な動きがあるらしいって」
「どんな」
聞いたカーレンの顔は、既にティアが接していたものとは全く違うものになっていた。
いつの間にかカーレンの周りに漂い出した風格染みたものが、初めてティアに、彼がこのウィルテナトの長なのだと認識させる。
「……、」
呆けて見ている間にも、ベルは首を傾げながら記憶を掘り返しているようだった。
「うん、と。何でもね、若いドラゴンたちが聖戦以来の古参の長老たちと張り合ってるみたい。里が二分しかけてるんじゃないかって。って言っても、ウィルテナトは基本北大陸の取りまとめではあるけれど、積極的に他と交流を持つ訳じゃないわ。私たちはつい最近長がカーレンへ代替わりしたばかりだから、前回の
カーレンが頷き、ベルはうんざりした顔で結論付けた。
「なら、つい最近の間に起こっている事で間違いはないと思うわ。向こうで事情が変わったのよ……族長会合を早めなければならない何かがあったんでしょ」
「何はともあれ、招かれたのだから行くだけだな。エルニスは今どこにいる?」
「ベッドの上」
くぁ、とあくびを一つ、ゆっくりとすると、ベルは少し据わった目であらぬ方を見やった。
「沈めてきたわ。昼まで起きないでしょうね」
「…………大概にな」
言葉に困ったのか、それだけをぼそりとカーレンは呟いた。
会話がなされている横で、ティアは手の中の手紙に目を落とした。
「……」
蝋封の間に指先を滑り込ませると、弾かれるように封筒は呆気なく開く。
かさりと手に触れたのは、一枚の折り畳まれた紙だった。
取り出さなくても見える位置に、流麗な文字で何かが書かれている。
『オリスヴィッカの空の下で
気付けば、いつも貴女を案じている』
「……」
オリスヴィッカ。
それは、町の名前だ。ある名の貴族が治めていたという、土地の。
ティアの胸に、一瞬の激痛が走る。心臓が一っ跳びするように跳ねた。
震える指で紙を開く。
だが、そこに文字はない。
「だから、すぐに発つ必要がある。時間はあまり残されていないだろうから――どうした? ……ティア!?」
がたんとカーレンが席を立つ音が後ろから聞こえた。
手が食堂のドアを掴んでいるのを、遠くで感じた。
いつの間に部屋を横切ったのだろう。
だが、気にならない。
構っていられない。
行かないと。
――オリスヴィッカに、行かないと。
「ティア! どうしたの!?」
廊下をいくらか走ったところで、誰かに手首を掴まれた。
「あんた、自分が今どんな顔しているのか分かってる!? 真っ白よ!?」
覗き込まれたけれども――そんなの、どうでもいい。
「ティア。何があった?」
カーレンの低い声がする。
「私、行かなくちゃ……」
憑りつかれたように、呟いた。熱に浮かされた時の頭のように、一つの事がいつまでも頭をぐるぐるとまわっている。
「行かなくちゃ。待ってるの」
無理矢理に身体を反転させられ、腕の中に閉じ込められた。
「分かった。だから、落ち着け、ティア」
落ちつける訳がない。
記憶は、回る。
紅い色が、回る。
白い壁一面に広がった血痕。血を流した人間の姿は、どこにもなかった。
空っぽの空間に、愕然と立ち尽くした日の事だ。
あの日は、ティアの中でずっと鮮明に残っていた。いくつも傷付けられてきた過去の中で、最も新しく、心に深い傷を残した日だった。
忘れなかった時などなかった。
『気付けば、いつも貴女を案じている』
忘れた日など、なかったのに。
「待ってるのに……! 私も、待っていたのに!」
自分が何を言っているかすら、分からなくなっていた。
「それは、それは、」
カーレンの胸を叩く。目尻が熱い。
気付けば、ティアは泣いていた。
「それは、私の言葉だったのに!」
□■□■□
ランファーという獣が目の前にいる。
牛を三回り大きくしたような、毛むくじゃらの獣だ。
大柄で温厚で人懐こく、良く食べるがそれ以上に良く働く。畑を耕すなどの力仕事にはぴったりで、農村では頻繁に飼育される事の多い獣だった。
触ると、淡い灰色の毛の中に、柔らかく手が沈み込んでいった。春の初めのため、まだ冬毛だ。夏になれば、この毛は抜け落ちて、冬とは違ってとても硬くてごわごわとした毛が生えてくる。
「……」
もふ、と顔まで埋めてみた。全身が毛に埋まって、春の肌寒い日にはちょうどいい温かさである。
ランファーはぐぁぐぁと鳴く。やや緊張したりしていた初めの頃と違って、今ではすっかりこうされていても穏やかだが、出会った当時は完全に興奮して敵視されていたものだった。
「……」
『ぐぁぐぁ』
「……」
『ぐぁ。ぐぁ』
「……」
『ぐぁ……』
「……あ!
『ぐぁ』
ランファーが鳴く。
横目で見ると、彼の巨体の影から顔を覗かせたのは、一人の少年だった。名は……確か、コルフなんとか。
「コルフリークだよ。いい加減覚えてくれよな、兄ちゃん」
『ぐぁ』
何故考えている事が分かった。
「……なんつーか、あんたがランファーといると、ランファーがあんたの事を代弁してる気がするよ」
「…………」
『ぐぁ?』
そうだろうか。
「絶対そうだって。ていうかさ、いい加減こっちに顔ごと向けてくれね? ランファーの毛に頭突っこんだまま会話されると不気味過ぎるんだよ」
『ぐぁぐぁ』
「……だめか」
『ぐぁあー』
そう、離れる気はない。
「離れてくれないと困るんだよ、兄ちゃん。また出発する頃だからさ。護衛してくれんのは嬉しいけど、こいつと一緒に村まで帰らないといけないんだから。……あんたも引っ付いて来るんだろ?」
『ぐぁ』
たぶん。
「……」
顔をランファーから離して、コルフリークをじっと見つめる。
「……でも、あんたがランファーから離れると途端に訳わかんなくなるよな。なぁ、本当に喋れねぇの? こっちの言葉は理解できる癖に」
それみたことか、というように、再びランファーが鳴く。
「おおい、コルフリーク――っと、何だ。またヴィニアと話していたのか」
「ヴィニアって、親父、いい加減にその名前やめようぜ……本当の名前聞いてないんだから、勝手にあだ名付けんのは良くねぇよ。てか、
「ぶっ飛んだ顔のすかし野郎に
「うっわ、ちょ、酒くせぇ! まぁたこの親父は昼間っから酔っぱらって……! オリスヴィッカの大公様は、本当にこんな不真面目な面下げて税納めに来ても、笑って許して下さるんだもんなぁ。お心が広すぎて涙が出るぜ」
「……」
肩を竦めると、少年はひょいとこちらを覗き込んできた。
「にしても、親父がうっかり見てひっくり返ったってあんたの顔、俺見た事ないんだけど。そんなにぶっ飛んでる訳?」
言われて、ぼさぼさの真っ白な髪に触れる。長すぎて顔をすっぽりと覆い隠してしまった髪の下は、自分ではあまり分からないが、見た者にこの世の終わりを持ってくる……らしい。
「見んなよコルフ。男として終わんぞおめぇ」
「訳分かんねぇよ糞親父」
自分より一回り小さな手が、顔を覆う髪束を掴む。
『ぐぁ』
――あ。
そろっと下から覗き込んできた少年は、そのまま固まった。
『……ぐぁ?』
大丈夫……な訳はないか。
皿同然に見開かれたコルフの目は、雄弁に語っていた。
何こいつ、と。
「……親父。こりゃ
ぽつっとコルフは呟いた。
「喋らねぇし夜会ったら怖いし動物にやたら懐かれるし、そのくせやたら剣の腕は立つし、最後にこの顔ときたら、そりゃ俺らにもったいないぐらいの護衛だわ。いろんな意味で。すげぇ傷が一本あるけどさ」
でもさ。
「俺、この顔に会った気がするんだけど。いや、でも一度見たら絶対忘れられないし……どこで見たんだろ。他人の空似かねぇ?」
「……」
「なぁ。兄ちゃん。ひょっとしてあんた、家族とかいない?」
『ぐぁー』
……さあ。分からない。
「何で」
『ぐぁ、ぐぁあ』
覚えていないから。仕方がない。
声の出し方を忘れた。
顔の動かし方を忘れた。
ただ、何か、探している気がする。
それは、――何だったろうか。
ヴィニアと呼ばれた男は、首を傾げながら空を仰ぐ。
『ぐぁあ』
なぁ、コルフリーク。俺には分からない事がある。
「何? 兄ちゃん」
『ぐぁ、……ぐぁ。ぐぁぐぁ』
時々、恐ろしいぐらい強い想いに駆られる事がある。
『ぐぁ』
誰に向けているかも分からない気持ちで。でも、一杯になると、自然と言葉が出て来るんだ。
『ぐぁあ……』
『愛してる。会いたい』、って。
□■□■□
ある日。
某国のとある町で、全く誰も関知しないような、秘された会話が為されていた。
町の一角の、少し小金があるような者が使用する中級宿。そこの一室は、カーテンによって光が閉ざされて、中を窺い知る事もできないようになっている。見た者は、誰も部屋に入っていないと思うのかもしれない。
明かりすらつけていない室内から外のざわめきを聞き、ラーニシェス大公はそんな事を考えていた。
ちょうど、話が一段落したところだ。
「……どうせ、おまえが呼ぶんだからそんな事だろうとは思ってたけどな」
と、物思いにふける背中にそう投げつけてきた声があった。
「奇跡の御子を保護したって噂は本当だったんだな」
「奇跡の御子? ……ああ、あの子」
聞き返してから、誰の事か見当がついて、大公はおざなりに頷く。
それと同時に、少し苦笑した。
「……君の言う噂というのは、大抵が人に知られているものではないだろう?」
「まぁ、そうだが」
振り向くと、薄暗い室内で、向かい合うような形で二人の男が座っていた。
声をかけてきた方は、長い足をソファに行儀悪く投げ出していた。
青地に羽根飾りの重そうなコートと、間から覗くレースフリル。頭半分は白いものの、金の陽光の髪と碧い瞳という容姿は、それだけならばどこから見ても貴族という印象を見る者に抱かせる。ソファに立てかけた剣も、実用には程遠いような儀礼用の剣だ。だが、それにも関わらず、どこか野性的で、絶対的な強さを見る者に確信させる空気が、彼の全身からは滲み出ていた。
そんな一見貴族の男は、ボトルを振りながら傲然と笑う。
「随分とでかい喧嘩吹っかけてんじゃねぇか、大公?」
「私としては、必要な喧嘩だったんだ」
からかうような口調に、薄らと笑いかけてみせる。
すると、やれやれというように男は頭を振った。
「ハルオマンドが奇跡の子を擁立して、戦にでも乗り出すってか?」
「そんなものではないよ」
「へぇ。じゃあ、大義は?」
「ない」
「……それは、少ぉし私には納得できかねますねぇ」
黙っていたもう一方の男が、ねっとりと口を開いた。
黒髪、黒目。病的なほどに白い肌に、さらに白粉を塗って、両の瞼から頬にかけて縦に一線、鼻先にも墨を重ねた独特の化粧。さらに真っ黒な司祭のような服。彼こそまさしく、黒い道化と呼ぶに相応しい容姿だった。
納得できないと大公に主張した男は、そのままかくりと首を傾げる。
「なら、どうして貴方ともあろう方が、かの御子を保護する流れになったのですかねぇ?」
「別に、ただの私情だよ。もとより、私が公的な目的で動いた事があったかい?」
「おやおや……では、自国の民を想っての行動ではなかったと仰る? 貴方が――そこの彼が例えたように――喧嘩を売った相手は、とても私情を挟んで良いようには思えませんよぉ? 下手をすれば民を危険に晒すではありませんか?」
矛盾していますねぇ、と、男は眉を潜めた。
「ですが、貴方がここに私と彼を呼んだのなら――いかな私情であろうとも、我々二人は何か、得るものがある、という事ですから……当然、何らかの対価となる知識など、教えていただけると解釈してもよろしいので?」
「……そうだね。君たち二人には、もともと知ってもらいたくてここに集まってもらったんだ。いや、これからのために、知る必要があると言うべきなのか」
大公は静かに微笑する。
「教えてあげよう。彼らと起源は、私と全てが共有されている。私が知る限りの全ての事、それが対価だ。下手な連中の上層の醜聞よりも、よほど効力を発揮する。周知となれば、彼らの沽券にかかわる話だからね」
「そんな事まで知ってるってか。材料も豊富、突き方もこっちの興味のくすぐり方も心得ていると……おまえも大概腹黒いなぁ」
呆れたように貴族風の男が言う。
「ラウス、おまえは知らないかもしれねぇけどな。俺が知ってる奴はまだ可愛気があったんだぜ」
「私だってそれに毛が生えた程度だよ、ラヴファロウ。それに、彼は死んだ。私ももう大分、かつてとは考えも違ってしまっている」
主旨が明確には存在していないものの、それぞれに事情を心得ている者同士の会話は続く。
大公は唇に弧を描いて、すっと手を伸ばすと、机の上のグラスを取った。気配を察した男の方が、ボトルからワインを注いでいった。
「史実じゃない。本当の事実が、いよいよ日の下に晒される時が来た。だが、これは誰の為でもない。私と――かつて、私が挑み、そして滅ぼしていった者たちのための、手向けの序曲だ」
「んふふふ」
道化司祭の男が笑う。
「良いですねぇ。手向け。鎮魂歌という訳ですか……確かに、厚顔無恥な彼らに吠え面をかかせたいとは、長年思っていたのですよぉ」
そして、もう一方は、大公の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「……それは、ひいては『あいつら』のためになるのか?」
「――なる」
大公は頷く。
「いいや、――私が、そうさせる。償いなんだ。犯してしまった過ちと、起こってしまった間違いと、そして、今の世界に対する――私なりの、ね。協力していただけないかな。オリフィア――並びに、ポウノクロス国王」
並べたのは、中央大陸北方の、強大な二国の名前だった。
「聖神教を沈めたい。――どう思う」
言うと、オリフィアの国王が、頬杖をついたままにやりと笑った。
「いいぜ。乗ってやるよ、その喧嘩――一人じゃ分が悪いんだろう? ハルオマンド大公」
そうして、三人の密かな合意は為された。
――ちょうど、時を同じくして。
あるドラゴンの青年と、小さな少年が、同じ大陸の片隅で出会っていた。
――先に待ち受ける、運命も知らずに。
序章 了